1組の活動記録@
  
   

*平成20年10月 「きはらし同窓会」
 堺東の「かに道楽」で「きはらし同窓会」が開催されました。前回の同窓会以降に旅立っていたことが判明した谷口君と、昨年2月に亡くなったサトちゃんを偲ぶ会にしては少し寂しかったかも知れませんが、13名の参加者全員で改めてお二人のご冥福をお祈りしました。本来なら宿泊同窓会の年でしたが、相次ぐ訃報のため宿泊同窓会は一年延期し、急きょ「かに道楽に決めたようです。 なお席上、幹事の引き継ぎはなかったようです。そして、気を取り直して「きはらし同窓会」として、いつも通り「かに道楽」の後、二次会として堺東銀座街のカラオケ・スタジオ「和花」へ場所を移してそれぞれ自慢のノドを披露しました。

    当番幹事は、黒田君・岡田君・河崎さん・古家さん・北田さんでした。

 心なしかここ数年、確かに思いもよらない訃報続きはありましたか、僕も含め、みんなどうしたのか元気がないように思います。心機一転して、ともすれば滞りがちな「かいらんばん」を、せめて月に一度くらい発行して、少しでも以前の活気を取り戻してみたいと思っています。もちろん、今まで通り多くの皆さんの協力を得るのが前提条件になりますが・・・。
*平成20年 9月 「かいらんばん 第374号発行」

 「おい勲ちゃんよ、今年は盆踊りの写真とってくれよ!」そんな股ったんの一声で、昨年12月14日の泉州の奇祭「やっさいほっさい」に続いてカメラマンをつとめるハメになりました。昨年は神社の役員をしているツーやん、こと(井野勉君)に頼まれたからです。ちなみに、ツーやんとは早くに亡くなった二組の羽里君の弟さんです。彼は僕の友人であり、熱心なパソコンの講習生でもあります。
 さて8月14日、いよいよ「石津音頭保存会」の本拠地・石津太神社での盆踊り大会の幕が切って落とされました。満を持しての、股野会長はじめメンバーの皆さんの張り切りようは大変なものでした。今年は例年より多くの出演依頼があるとか。まず8月第一週は「岸和田」、第二週は「協和町」、第三週は「本拠地・石津」、そして第四週は「泉大津」と、この夏は獅子奮迅の大活躍です。とにかく、同世代の友人たちの頑張っている姿を見るのは嬉しいことです。俺もまだまだ・・・何かこう我ながら勇気のようなものが湧いてきます。
 この日よく見ると、どこからか、小さなお猿さんが紛れ込んでいたりして(笑)。初芝から小猿が友人と一緒に、それに堺東のカラオケ居酒屋「つつみ」の常連の北野さんたちが来てくれていました。こんな様子を一部始終デジカメにおさめました。折角なので二人とは知り合いの楠君を、その豪邸に訪ねました。つい注がれるままにビールなどよばれました。
 盆踊りが終わった後、ちょっと堺東へよってから帰宅して、日付が変わっていましたが気になってデジカメを覗いてみると、あっちゃ〜約半分がフラッシュ不足で暗くなっていました。こりゃいかん、寝るのも忘れて真相究明に乗り出しました。ほどなく解明できました。多分、原因は二段シャッターだと思います。軽く実験してみましたが、まず間違いないでしょう。明日、いや、今晩もう一度行ってリベンジしてこなきゃぁ!天気大丈夫かなぁ。
 そして16日、この日は朝から最寄りの写真屋さん(諏訪森駅前)へ3度も足を運びました。まず盆踊りの写真ですが、明らかに失敗と分かるのを削除して約 枚入りのメモリーを持参しました。すると即座に目の前で インチぐらいの画面に出して見せてくれました。「どれを現像しますか?」「全部お願いします」「暗いのが多いですね」「適当に修正してくれるのではないんですか?」「ええ、ある程度しか出来ませんよ」「こちらで、ある程度修正してきた方がいいんですか?」「そうですね、その方が良いと思います」「分かりました、修正してまた持ってきます」。
 そして二度目、これでお願いします。「随分明るくなりましたね、これなら大丈夫でしょう」「そうですか、それではよろしくお願いします」「はいわかりました、仕上がりは 時 分ですね」「えっ、いつのですか?」「今日ですよ」「へぇ、そんなに早くできるんですか?」。受け取ってから、約 分で仕上げるようです。
 さらに三度目です、「出来ていますか?」「はいどうぞ、こちらのお写真ですね」「はいそうです」。さすがプロです、ただ早いだけではなく思った以上にきれいに仕上がっていました。
 《追伸》 その後、四度目の必要が生じました。ネガはもちろん、ポジもないし三度目の時に聞いておけば良かったんですが「焼き増し」の方法です。さすがに四度目は行きにくく電話で済ませました。先ほど店のパソコンに読み込んだデータは個人情報なので、すぐに削除される様になっています。お手数ですが、もう一度メモリーを持参して店のモニターに映る写真を見て焼き増しの枚数を指定してください。または、現像した写真のウラに印刷してある番号を指定してくださいとのことでした。う〜む、今日はまた良い勉強になったなぁ。
                                  久野 勲
*平成20年 8月 「かいらんばん 第372号・373号発行」

 河島英五の歌に「♪ 秋は すれ違う後ろ姿に 面影偲び 手酌酒〜・・・人恋しさに 呑んだ酒が なお人恋しくさせる〜」という詞があります。とかく秋とは、もの悲しいというイメージがあります。「秋の海」が、それを端的に物語っています。「♪ 今はもう秋 誰もいない海〜」と。まさに芋を洗うような賑わいを見せていたプールや海水浴場も、夏休みが終わって子供たちがそれぞれの学校へ戻ってしまうと急にその姿を一変させてしまいます。きっと、真っ赤に燃えた夏の後だから、よけいに秋がもの悲しく感じられるのかも知れませんね。
 7月に暑中見舞い(372号)を送りました。さらに幹事さんからの依頼で同窓会の案内を送っています。これには「参加・不参加にかかわらず、近況報告等を久野まで送ってください」と書いています。しかし、何の便りも返ってこないので、皆さんの手元に届いていないのではと心配しています。
 ところで、はや10月半ばになりました。釜中君から「プリンターの調子が悪い」との連絡が入り、久し振りに事務所を訪ねました。そこで、幹事の黒田君が「何でか今回参加が少ないねん」と寂しそうにしていました。実は先日、「二次会の場所を予約しておいてくれ」といわれて下見に行き、ちょうど良い場所があったので14〜5人で予約してきました。下見とはまた大層なと思われそうですが、一次会を決めるのに幹事さんが二人で下見に行ってきたそうです。
 用事がある場合はやむを得ませんが、そうでない場合はできるだけ参加してもらいたいと思っています。頑張ってくれている幹事さんに少しでも応援というか協力したいものです。そうすることによって、お互いに賑やかで楽しい同窓会になるでしょう。もちろん、「元気にやってるで!」・・・など近況報告の方もよろしくお願いします。
 ところで、「三クラス合同同窓会」の方は、しばらく実施していませんが、ここにきて暗雲がたれ込めていているようです。(ここだけの話ですが) ある信頼できる情報によると三組の「6・3会」(きはらし会と同じような会)は、すでに解散してしまっているそうです。さらに二組は、ある常連幹事さんが「俺はもう二度と同窓会には行かない」と言っているそうです。いずれも原因は幹事仲間の内輪もめだそうです。
 我々はそう言う危険な曲がり角(曲がってしまえば突き当たり)にさしかかっているんでしょうか。いずれにしても、幹事以外の人たちには関係ないことだと思いますが。一組がその気になれば、いずれ他のクラスの人たちにも呼びかけて・・・そのくらいのエネルギーはあるでしょう。その前に、とりあえず我々の足元をしっかり固める必要があるのかも知れませんね。
                                久野 勲

*平成20年 4月 「サトちゃん追悼特集・第六報」
  
<サトちゃんを偲んで>
 2月17日、サトちゃんが私の枕元に立ち《股ったん、ありがとう。これからは私の代わりに「かいらんばん」の折り込み頼むで、一回教えたやろう》と言っている夢を見ました。起きて時間を見ると夜中の2時10分でした。それから寝つかれずコーヒーを飲みながら考えてみると、この日がサトちゃんの初七日だと言うことに気がつきました。
 夜が明けるのが待ち遠しく、朝8時に久野に電話を入れ「今晩6時に俺の家で飲もうや」と言ったところ、「二、三日前に腰をひねって、歩かれへんかったんや」とのこと。「でも、今日は大分エエみたいやから、様子を見て行けるかどうか昼頃にでも返事する」とのことでした。そして昼前に先生(久野)から「何とか行けそうや」との連絡がありました。
 それから、近くに住む清水と五百にも電話をしました。珍しく二人とも家にいてOKとのことでした。やっぱり、サト子がみんな家に居るようにしたのかなと思い、「まさ夢」ということは本当にあるんだな、改めてそう思いました。そして、いつも懇意にしていただいている古家さんのご主人もと思い電話を入れましたが、都合が悪く来れないとの事でした。結局、私と先生、五百、清水、それに五百の奥さん?にも来てもらい五人で「サトちゃんを偲ぶ会」という名目で急きょ飲むことになりました。
 久野が6時前に来るなり、サトちゃんの追悼「かいらんばん」を出そうと思ってるんやけど、腰が痛うて釜中事務所へ行かれへんかったんや。もう大分ようなったんで、そろそろ動き出すんやけど股ったん原稿書いてくれてんやろとの事でした。前に頼まれていたので、すでに下書きが出来ていました。そこで、先生ワープロ打ってくれるかというと。俺は、まだ座ったら立ち上がるのが大変やから自分で打てやと言われました。料理の準備がほぼ出来ていたので、五百、清水らが来るまでにと思ってパソコンの前に座って打ち込み始めました。そして、それがちょうど打ち終わるのを待っていたかのように「こんばんは」と言いながら二人がやってきました。
 《今朝、サトちゃんの夢を見て、それでサト子の初七日でもあるので、サト子の事を語り合いながら飲みたいと思い声をかけたところ、忙しい中よう来てくれてありがとう》という私の挨拶で、飲み始めました。飲み始めるなり突然、五百が「そらそうと香儀なんぼや」と言いだしたのがキッカケとなって、サト子の話がはじまりました。五百が「あいつは、あっさりしててエエ女あったなぁ。俺みたいな男にもやさしく接してくれたんや。エエ人ほど早う死ぬて言うけどほんまやなぁ。先生お前は長生きするで」(何でやねん、ほっとけ!)。清水も、そんな話に相づちを打ちながら「ほんまやなぁ、楠君の法話やないけど多くの同級生に見送られて、サトちゃんは幸せやったと思うなぁ」・・・などと話をしている時、五百が待ちに待った奥さんが来てくれました。ここで、サト子の話は一時中断。
 みんなで楽しく、わいわい言いながら話をしていると時間の経つのは速いものです。十二時頃になって「お先に失礼します」といって五百の奥さんが一足先に帰りました。その後、サト子の話に戻りました。思えば、去年から今年にかけて同級生の悲しい話が続いて、書きづらい事ばかりです。そんな中でも、役目とはいえ久野が頑張っていろんな事を書いてくれています。だから私もいろんな事を書かせてもらっています。
 去年、私と吉田・河原・俵谷の四人が幹事をしていた時のことです。久野と一緒に初めて釜中事務所へ「かいらんばん」の発送作業を手伝いに行きました。その時にサトちゃんが、私の弁当も買ってきてくれました。釜中・黒田も含め、五人でいろんな話をしながら食べたあの時の弁当は、また格別の味がしました。やがて弁当も食べ終 わって先生がパソコンに手をかけはじめて「あれっ、サトちゃん会計報告書がないで」と言いました。そこで、サトちゃんが「しまった、家に忘れてきた」との事で、私の車で取りに行く事になりました。その時に車の中でサトちゃんといろんな話をした事が、つい昨日のことのように思い出されます。
 あの時、車の中でサト子は「股ったん、お医者さんがな女性の平均寿命までは無理かも知れんけど、この調子でいけば八十歳まで生きさせてやるて言うてくれてるねん」と言ってました。「そらエエがな、俺なんか到底八十歳まで生きられへんがな」「そやけど今度の宿泊同窓会にはよう行かんかも分からんで」「何でや」「そうかて、足があかんねん」「俺のおふくろの車椅子バスに積んでいくよ。それにサト子を乗せて、俺が面倒見させてもらうで」「股ったんありがとう」「とにかく生きる事や、サト子」・・・。
 そして、サト子がアイスクリームを食べたいのか、みんなの分をローソンで買って事務所へ帰りました。そして、無事、会計報告も終わり発送作業がはじまりました。そこでサトちゃんが「股ったん、下から三つ目の線から横に折って、それからまた縦に三つに折るんやで」と教えてくれます。一生懸命に折っていると、横から釜中が「うまいもんやなぁ、股ったんがこんな事できると思うてなかったがな、たいがい器用やな。サトちゃん、これから股ったんに来てもらいや」・・・。
 そうこうしているうちに発送作業も終わりました。そこでサト子が「アイスクリーム食べようや。股ったん、このアイスおいしいで」といって手渡してくれた、あれほど元気だったサトちゃんやったのに、十五年も早うに、あの世へ行ってしまうなんて・・・。俺が悪かったのかな?サト子は石津川の近くに住んでいたので子供の頃から川や海で泳ぐのがうまかったと思うけど・・・プールでの泳ぎをサト子に教えておけば三途の川を渡りきらずにターンして又この世に帰ってきたんではないかと思いました。この話には、三人も笑っていました。
                             股野 稔
(371号)
*平成20年 3月 「サトちゃん追悼特集・第五報」
  
<サトちゃんの机>
 「サトちゃん・追悼特集」366号〜369号を読んで サトちゃんは同級生に頼られ、そして愛されていたんだなあ〜と目頭をあつくしながら、つくづくそう思いました。はっきりと覚えていませんが、20年程前の同窓会の時にたまたまサトちゃんが隣に座り、話の中で清ちゃん今どんな仕事をしてるんや?ときかれてインテリアの仕事をしてるねんと答えました、「ええやんか!」と言ってくれました「ええんやけどな、困ってる事があるねん」と言うと、なんやねん?と聞かれ「仕事が終わっても、拭き掃除する人がおれへんねん、家内がもうすぐ子供ができるから」「ほんだら私がいったろか?」「ほんまか!ありがたいわ、3日後いけるか?」てな調子で話がまとまりました。次の日、早速愚妻に会って貰いました、その後 仕事がない日は家に来てくれて、よく子供と遊んでくれました。子供も大きくなるにつれて「サが言えないのか「タトチャン・タトチャン」といって、なついていました」その子供も去年成人式を迎えました。記念の写真は芝さんのご主人に立派に写してもらいました、その写真を家に見に来てくれたサトちゃんと、月日のたつのは早いな〜!と笑いながら話しました。
 その後、サトちゃんが「私、もうしんどいから拭き掃除行かれへんわ」と言い出しました。うすうす分かっていましたが僕の口から言い辛く、家や事務所ではよくサトちゃんの病気について話をしていました、ある日妹さんが、清ちゃん、病院の先生に家族の方に来てほしいと 言われたねん、と電話がありました。受け入れたくなかったですが「ついに、くるときがきたなあ〜」と思いました。元気な時は電話で「今日は、清ちゃんも黒ちゃんも弁当あるんか?」と聞いてくれました。又11時過ぎて今日は弁当ないねん、と電話をすると「遅いな〜と言いながら、しゃ〜ない行ったるわ」とサトちゃん得意のラッタッタ−で走って来てくれました。そして、サトちゃん専用の机に座り一緒にお弁当を食べながら、いつも今度の一泊旅行は何処に行く?と黒ちゃんとうれしそうに話をしていました。その旅行の資料が今も「サトちゃん専用の机」に置いてあります。片付ける事ができません。いまにもサトちゃんがオッスと言って階段を上がって来る様なきがして、その机には他の物は置けません。「私の机に勝手に物を置きな!」と上から怒られそうで!!サトちゃん、いろいろ助けてくれて有り難う。「サトちゃんの机」はカナカが有る限り永久に「サトちゃんの机」です。ご冥福をいのります。
                             釜中 清(370号)
*平成20年 2月 「サトちゃん追悼特集・第四報」
  
<さとちゃんの御冥福を祈りつつ>
 厳しい寒さの中、少しづつ春のきざしを感じる今日この頃ですが、いつも「かいらんばん」を有難うございます。又きはらし会」の幹事の皆様方には、いろいろお世話をおかけしておりますが、平素は勝手ばかりいたしており、申し訳なく思っております。
 芝様よりさとちゃんの死去の電話を頂き、びっくりすると同時にとうとうこの世から旅立ってしまったなーと、来るものが来た・・・感じでした。
 思えば昨年2月に、あまりさとちゃんの様子がよくないと聞き、そして今が一番調子がいいみたいとの連絡をうけ、大阪行きのフェリーに乗りました。女性ばかりのミニ同窓会となり、私にとっては思いがけなく皆様にお会いすることが出来てとてもうれしかったのですが、思っていた以上にさとちゃんの顔色が悪く無理をさせたのではないかと案じておりましたが・・・。
 あれから一年よくがんばったなーと思います。いつも淡々としていた表情で人にはあまり苦しさも見せないで、いろいろ人生の中でつらいことも多かったと思いますのに、やっと苦しさから解放されたと思います。
 又最後は親友の皆様に看とられて安心して旅立っていったことと思います。
 同級生の一人として、こんな最後を迎えた人もいないと思います。遠方で何も出来ないものとして皆様に感謝をいたします。
 人生の最後で、さとちゃんは幸せな事だったでしょう。「きはらし会」があって「かいらんばん」があったお陰で私もいろいろ知ることが出来、又皆様の近況が知れて、いつも皆様と同級生として連なってうれしく思います。
 いつも不精者の私で申し訳ありませんが、さとちゃんがいなくなってもがんばって下さると、うれしいのですが。
 さとちゃんの御冥福を祈りつつ、皆様によろしく感謝申し上げて下さい。

    二月二十七日
    久野 勲 様
                         佐藤(南)寿美子(369号)



<サトちゃんの思い出>
 昨年7月の同窓会の時、横に座って話をしていると、突然首にリンパがたくさん出ているので、びっくりしました。お医者さんが、手術の後三ヶ月もったらいいと思ったそうです。10年も過ぎたから大丈夫よ!でも、心配になってお昼に電話するのですが、出ないので釜中さんの所へ行ってたのだなぁ。逸ちゃんにお願いしてサトちゃんの報告をしてもらっていました。
 12月中旬、主人が酒井さんから電話があったというのです。何があったのかなと思い、電話をすると、かけていないといいます。様子を聞くと下痢をしていたが、今は便秘、どっちも辛いわとのこと。でも声が元気で安心したよ。
 それから五日ほどすると、逸ちゃんから電話に出ないとのこと。心配して相談し、芝さんに入院したのか見に行ってもらいました。そして、12月28日に女子だけでお見舞いに行き、1月14日に河原・高橋・山本の三人でお見舞いに行ってきました。その時は座っていて元気でニコニコして患者さんにマニキュアをしてもらったそうです。股ったんが、旅行に行くのに車椅子で連れて行ったるがな、と言ってくれた事をうれしそうに話をしていました。「又来るね」「うん」それが最後になるとは、あれから一ヶ月もしないうちに亡くなるとは・・・本当にさみしいです。でも楽しい事もいっぱい!ありがとう。ご冥福をお祈りします。

 《追伸》
 サトちゃんの長い髪の写真がありました。高山の一泊旅行の時だと思います。
                        山本(西)小重美(第369号)
*平成20年 2月 「サトちゃん追悼特集・第三報」
    
<びっくりしました>
 前略
 「かいらんばん」毎度、労力・費用も要るのに届けていただき有難く思っています。サトちゃんが亡くなったとの事、びっくりしました。昨年7月の同窓会で会った時も、しんどそうに思いましたが、無理をして来ているんだと思いました。天国に行くのは大分早いと思いますが、病には勝てません。さぞや編集室のスタッフも哀しく残念だったろうと察します。また「炭谷は愉快な奴だ」と言ってくれたとのこと。嬉しく思います。また、サトちゃんの事だから、天国でも「きはらし会」を作ると思います。 敬白
 《追伸》また、皆さんと会える日を、大津より楽しみに待っています。                     

                                         炭谷(鎌野)信彦
(第368号)



<ついてこな、おいとくで>
 サトちゃん、貴女が逝ってしまったなんて今でも信じられません。よく山歩きをしましたね。健脚な貴女、ヨタヨタした私「ついてこな、おいとくで」と言われて貴女がすぐに姿が見えなくなるので、短い足で一生懸命ついて行きました。やっと追いつくと木の枝を杖がわりに拾っておいてくださり、「これ持つと楽やで」と、本当に楽でした。
 時には男っぽく私たちを引っ張ってくださり、ある時は私たちがおよびもつかない程の女らしさを見せてくださったり、色々な貴女が頭の中を過ぎります。色々な思い出は胸にしまっておきます。でもこれからも何度でも聞きたかったです「ついてこな、おいとくで」を・・・。ご冥福をお祈りします。

                       河原(山口)逸子 (第368号)



<サトチャンありがとう>
 「ロイヤル・ホスト」で昼ランチしない。オッケイ・・・。という一言で決まり、サトチャンは好物のエビフライ・ランチです。その後、お決まりのコーヒーで楽しい時間を共に過ごせ人生の一ページになりました。楽しいひと時でした。
 長い長い道のりを、時には笑い、時には苦しみ、決して人に苦しみを明かさない事を約束して静かに歩んできましたね。今静かに大事な友を亡くした事を深く感じています。これから先、ぽっかりサトチャンと云う姉をなくした様な気持ち、貴女の弱みを見せない強い人柄を思い、今になって貴女を信頼して頼りにしていたのを痛切に感じて居ります。
 私もまた頑張って、日々人間として誰かの何かの役に立ちながら、自分もその中に身を置き、良い人生だったなと思える様に生きて行きたいと思います。
 サトチャンの明るい屈託のない人柄を見習って、私もうっとうしい性格を反省し毎日頑張って過ごしたいと思います。
 サトチャン有り難う御座いました。御冥福をお祈り申し上げます。

                       
安井(俵谷)美亜子 (368号)



<私には先がない>
みんなと、より多くの思い出を残したい
 朝夕少しずつ涼しくなってきましたが、皆様風邪など引かないようにして下さいネ。先日は「きはらし会」の皆様に「かいらんばん」10周年のお祝いをしていただき、ありがとうございました。大変楽しい一日を過ごすことができました。うれしい限りです。皆様に久しぶりにお会いすることができて本当に楽しかったです。こんな楽しいこと時々やってくれませんかネ。しかし、酔っぱらって皆さんに嫌われるようになったらどうしましょうか、これが一番頭痛のタネです。
 一回ぐらい四角四面に書いてみようと思ったんやけど、じっきに地が出てくるからや〜めたっと。ところで、病気してから私少し変わったように思うんやけど、皆さんから見てどうでしょうか?いろいろ悩んでも仕方がないと思いますので、あんまり余計なことを考えんようにしました。でも、友達はいいですよ。とくにこの何年間というものは、本当につくづくそう思っています。
 この夏は、いろいろなことがありましたが「かいらんばん復刻版」の印刷に追われていました。お陰さまで、治療の辛さなど知らない間に夏が過ぎてしまいました。気候もよくなり、また体がムズムズし出し、家の中にジッとしていることができなくなっています。「きはらし会」の皆さんはいかがですか?
 あ〜あ肩こったなぁ〜・・・パソコン、もうこの辺でやめとこかなぁ〜・・・せやけど横で久野さんが見てるしなぁ〜もうちょっとだけ、がんばってみよ・・・。
 もう少しで、私ら還暦やし、これから「年に一度」の同窓会と「四年に一度」の宿泊同窓会では間が長すぎると思いますが、皆さんはどう思いますか?今度の幹事さん一度真剣に考えてみてくれませんか。なんせ私には先がありませんので、よろしくお願いします。
                   平成13年9月 第254号
                            酒井(坂部)サト子


 あらためて、サトちゃんが書いた7年前の文章を読み返してみると、当時「私には先がない」に「そんなアホな、こんだけ元気になたんやから、もう大丈夫や心配ない」と励ましの気持ちで言っていました。今思えば、サトちゃんの叫びだったんでしょうか。
 そして当時、編集部四人の合作として、ご覧のような創刊号から246号までを収録した「かいらんばん・創刊10周年記念誌」なる復刻版が完成しました。釜中から、この話が出た時は、そんな大層なと僕だけが消極的でした。しかし、三人の「是非やろう」との熱意に負けました。
 最終的な装丁・製本こそプロに頼みましたが、釜中事務所での、おびただしい数のコピーは、主にサトちゃんと黒ちゃんが担当してくれました。釜中が「はじめに」を、僕が「あとがき」を書いています。
 二〇部だったか三〇部だったか忘れましたが、限定出版になりました。希望してくれる人には3000円で買ってもらったら採算が会うやろうと思っていました。もちろん儲けるつもりはサラサラなかったですが、まさに「捕らぬタヌキのなんとやら」で大赤字になってしまいました。だから言わんこっちゃない(大笑)そんなことも、今となっては笑い話になってしまいました。わが机上の復刻版も、事あるたびに開くので、ボロボロとまではいきませんが、結構傷んできています。とにかく、これが完成した時には、サトちゃんは我が事のように喜んでくれました。ちなみに、ある人は「いいの出来たねぇ、ありがとう。私が向こうへ逝く時には、これも一緒に持って行きたいと思ってるんですよ」などと言ってくれました。

《はじめに》
 僕がこの「かいらんばん10周年記念・復刻版」の出版を企画した背景には、次のような思いがありました。
 この歳になっての「10年」は、言うまでもなく非常に貴重な時間なのです。恐らく「20周年」の頃には、我々自身今のままの状態で居られるということはないでしょう。だからこそ、この10年間の「かいらんばん」の集大成とも言うべき「復刻眼」を、まさに今、作っておかなければと思うに至ったわけです。少し強引だったかも知れませんが、是非とも、この趣旨を理解して頂き、出来るだけ多くの皆さんのお手元に置いていただければと思っています。
                                   釜中 清
《あとがき》
 省みますと、これをはじめた動機は、たしか「ワープロの練習」と「おふくろの死」だったと思います。いずれにしても、軽い気持ちではじめました。それがいつの頃からか欲が出て、せめて100号まで頑張ろうと思うようになり、そして今ここに10周年を迎えることができました。これも「きはらし会」の皆さんの支えがあったからこそだと、深く感謝しています。
 なお、発行に際しましては、釜中 清君・黒田経一君・酒井サト子さんの献身的な協力を得ることができ、非常に心強く、有難く思っています。
                                   
久野 勲

<盛会のうちに> 平成13年9月・第267号より
 9月2日、「かいらんばん創刊10周年記念」と銘打った「幹事会」が開かれました。股野の名司会で始まり、播野幹事長の挨拶、釜中の乾杯の音頭・・・16名の中には岡田・谷口の顔もあり、和気藹々のうちに宴が進みました。宴もたけなわになり今回の10周年記念誌に関して、久野とサトちゃんに豪華な記念品が贈られました。久野のそのお礼の中に『何気なく始めた「かいらんばん」ですが、皆さんのおかげで10周年を迎えることが出来ました。恐らく20周年はないと思います。今筆を休めていますが、いずれ皆さんの後押しを得て動き出せたらと思っています』と言う意外に冷めた挨拶がありました。その後、全員で恒例の二次会の会場へ。それでも騒ぎ足らず、男性たちはそろって三次会、四次会へと石津から諏訪森の町を夜遅くまでさまよい歩いたそうな。久 野
*平成20年 2月 「サトちゃん追悼特集・第二報」
 
<さようなら、サトちゃん>
 2月9日、釜中君より連絡がありました。それによると、昨日サトチャンの妹さんから、姉の命が今週いっぱい(16日)までと病院の先生から言われましたと泣きながらの電話があったそうです。女性の幹事には連絡し、サト子と最後になるかも分からないので見舞いに行くけど股ったん行けるかとのことでした。翌日3時、堺市民病院に久野君と駆けつけました。私と久野君が病院に着くと北田(芝)さん、そしてサトちゃんの妹さんが来ていました。挨拶がおわり北田さんと話をしょうと思っていたら釜中夫婦が来ました。今日は誰らが来てくれるんやと聞くと、俺と股ったんと勲ちゃん、そして楠や、黒チャンは今日は来られんのやとのことでした。そのうちに女性の方々が見え、これで皆そろったか、古家さんがお昼から出かけるので午前中に来てくれたそうで、五百君は旅行中で間に合いません。幹事の北田さんがこれで全員だと思いますと言ったら皆が立ち上がり病室に入りました。
 妹さんが、姉ちゃん会いたがっていた同級生みんなが来てくれたでと声をかけましたが、反応はありませんでした。しかし、女性の皆さんが手をサスリ、美亜子やで、小重美やでサトチャンわかるか、逸子やでと声をかけると膝を立て首を立てに振り意識が確かなようでした。そして椎木さんフーチャンがサトチャン皆んな来てるで、股たん、先生、清チャン、それに楠くん、みんな来てるでしっかりせなあかんでと声をかけると、また首を縦に振ったり、笑顔を見せたりしてくれました。私はそれを見ていて涙が出そうになり、思わず病室から出て涙をぬぐいました。(写真は遠い日の、伊勢旅行でのツーショット)
久しぶりにみんなと顔お合わせたので宿院の喫茶店で話しをしました。サトチャンせめて今年の1泊の同窓会まで元気でいてほしかったな。それは仕方無い、サト子も皆んなの顔見て満足やと俺は思うで・・・話はつきません4時 分頃に皆んなと別れ、私と勲ちゃんは車の中で俺の家でいっぱい飲むか。こんな話はすぐまとまります、7時に勲ちゃんが来て楠君は一軒お参りしてから来るそうな。そんなら先に飲むかと言って飲んでいると楠君も加わりました。
 そして解散した直後、サト子が今亡くなったとの電話が入りました。病院にこれたら来てくれととのことだったので、すぐにタクシーで3人が病院駆けつけました。病室で手を合わせました、楠君に仮の枕経を唱えてもらいました。兄弟みんなに見送られサト子は幸せな最後を遂げられたなと私は思いました。
 サト子は、きはらし会のリーダーとして、又それを生き甲斐として、又「かいらんばん」を支えとして約 年間病気と戦ってきました。我々にはギリギリまでそんな素振りは見せませんでしたが、さぞ痛かっただろう、苦しかっただろうと思います。最後に同級生の皆んなと会い、きっと安心したんでしょう。三途の川を渡ってしまいました。又あの世でもリーダーなどしなくてもいいから、ゆっくり休んでください。さようなら、もう会えないサトチャン・・・(第367号)
                                   股野 稔



<こんなウチやけど>
 平成14年6月
  「かいらんばん」300号に次のようなコメントを寄せてくれています

「かいらんばん」300号おめでとうございます。振り返ると、この間、本当にいろいろな事がありましたが、今考えると、それも又、いい思い出になっています。それに何と言っても有り難いのは、四年に一度の宿泊同窓会のキッカケにもなりました。そして、年に1、2度何人かが集まって楽しい一日を過ごすことが出来るようになったのもみんな「かいらんばん」のお陰です。面と向かって言えませんが、感謝の気持ちでいっぱいです。
 ところで私事ですが、数年前はからずも大病を患ってしまいました。そんな時にも皆様のあたたかい励ましを頂いて、くよくよ思い悩む事もなく乗り切る事が出来ました。これもみんな、「かいらんばん」と「きはらし会」の皆様のお陰だと感謝しています、本当にありがとうございました。
 ところで、かたい話は、このぐらいにしときますが、これからもボチボチ無茶修行に出かけたいと思っています。が、よる年波には勝てません。相棒の逸っちゃんとも話していますが、「あまり高い所はやめにして楽な所ばっかりにしょうや」と。そやけど、こればっかりは二人ではどうしようも出来ません。と言うのも私ら何をするにも四人一組の団体ですからネ。
 とは言うものの、時々私ら二人で決めたことを無理やっこに通すことがあります。そんな時は、心やさしい私達のことでございます。「皆んなに悪い事したなぁ」なんてこれっぽっちも思っていませんけどネ。なにしろ私は、こう見えてもちょっとだけ?いや、だいぶん、かなり、相当・・・わがままな所がありますんで、あしからず。
 こんなウチやけど、辛抱してつき合ってくれている女の人も男の人も、そりゃもう大変やと思いますが、ここまで来たんやから「くされ縁」やと思ってあきらめてちょうだい。これに懲りず皆さん、今後とも末永くおつき合い下さいネ。お願いします。

                              坂部(酒井)サト子



 思えば、サトちゃんはかなり無理をして、いろんな事を書いてくれました。相棒としての気安さからか「文章がへたくそや」とか「変なこと書いたら、みんなに笑われる」・・・等と言っていたのを、四〇数人しかいない子供の頃の仲間内で恥ずかしいもクソもあるかいな。お互い何もかもお見通しなんやから、今さら何もエエ格好しょうと思わんとありのままでええがな。と半ば強引に書いてもらいました。サトちゃんはいつも元気な姿しか見せなかったので、つい、大変な病気を抱えていること忘れがちになっていました。
 そのうち、パソコンに興味を持ち出し、僕より良いのを買い、年賀状や「かいらんばん」の原稿もワープロで打てるようになりました。そして、股ったんと一緒で何度勧めてもインターネットには手を出しませんでした。まだまだ、これからやることがいっぱいあったはずやのに・・・

                                  久 野



<サトちゃんとパソコン>
*平成16年1月
 十二月に入って、「股ったん」と「サトちゃん」が、それぞれ自宅にデスクトップパソコンを備え付け本格的にパソコンを使いはじめました。二人には以前から勧めていましたが、やっとその気になったようです。ただ、二人とも今のところインターネットには興味がないようですが、引き続いてメル友に加わるよう勧めていきたいと思っています。
 とくに、サトちゃんの場合、頑固なまでに「置く場所がないからいらん」といっていたのに、ある日、釜中事務所で何種類かのチラシを持ってきて「どれがええやろ」と聞いていたかと思うと、二、三日して「もう買うたで、使えるようにしてや」とのこと。せっかく買ったパソコンを、「ただの箱」にしておく訳にもいかず、使えるようにしに行ってきました。行ったもののプリンターも含め最新鋭機なので戸惑いもあり、昼頃からはじめ、終わる頃には日が暮れていました。
 これで僕の息のかかったパソコンが十数台になりました。十二月は年賀状などで、あっちこっちからお呼びがかかり忙しく走り回っていました。いろんなパソコンに触れることができ、おまけに喜んでもらえる、三日やったらやめられんね!

*平成16年2月
 その後も相変わらず
 東にプリンターが動かないと嘆くおっさんがいれば、行って動くようにしてあげ、 
 西に無線LANが飛ばないと言ってしょげているおっさんがいれば、行って私に任せなさいと直して安心させてあげ、
 南に画面が固まって動かないと言って泣くおっさんがいれば、行って優しく励まして動くようにしてあげ、
 北にパソコンを買ったものの何もしないおばさんがいれば、行って親切に使いなさいよと言って無理矢理使わせてあげる。

     雨ニモマケズ  風ニモマケズ  雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ

     丈夫ナカラダヲモチ サウイフモノニ  ワタシハナリタイ

 とくに土・日となるとあっちからもこっちからも声がかかり忙しくなります。我々仲間内で最新鋭機と最新のプリンターを持っているのが、何とサトちゃんです。先日は大層お世話になりました。サトちゃんに?いや、最新鋭機にですよ。
 まずは、宿泊同窓会の時の集合写真(A5版)ですが、コピーすることになりサトちゃんのプリンターで印刷させてもらいましが、見事に刷り上がりました。
 すでに千二百円で購入された方には申し訳ありせんが、サトちゃんのご厚意に甘え無料で配らせてもらいました。これからは一枚だけ買うことにすればいいかも。
 次に、CDに直接印刷できるという機能を試させてもらいました。もちろん久野作詞の「青春のころ」のCDです。ああでもない、こうでもないの繰り返しの末、なかなかいい作品が出来ました。
 家まで押しかけたついでに、いろんな機能を試させてもらいましたが、なかなか優れものの最新鋭機でした。志し半ばでしたが、窓の外が夕焼けで赤く染まってきたのと、いろんな事を試しすぎたので、サトちゃんがパニック状態になりかけていたので、「よっしゃ、今日はこの辺でおいといたろ」と言うことで、お仕舞いにしました。なかなか、久しぶりにいいお勉強ができました。         久 野




<サトちゃんと「かいらんばん」>
 元々筆無精だったサトちゃんが、運悪く(?)僕の相棒となったために書かざるを得なくなったようです。「かいらんばん」を紐解いてみると、平成5年5月、思いもよらず足元をすくわれるような目に遭い、落胆のあまり誰にも相談せずに「最終号(30号)」を発行しました。結局、仲間たちの強い説得で再発行になり現在に至っています。もちろん、気持ちの切れた原因は「原稿がない」ということではありませんでした。しかし、再発行後、俄然サトちゃんが書き始めてくれました。まず「足の裏にチョウチョウが(34号)」からはじまって、好きなハイキングをテーマに書き続けてくれました。いわゆる「おなじみサトちゃんの無茶修行」であり「おなじみサトちゃんの珍道中」「サトちゃんの旅行記」などのシリーズものでした。とくに、平成16年5月(337号)に掲載した《サトちゃんの「旅行記」その@ここだけの話の巻》には、うれしさのあまり「これは、サトちゃんがマイパソコンで初めて打った記念すべき原稿です。熟読吟味しながら読んでみて下さい」とのコメントを載せています。いずれ、サトちゃんが「かいらんばん」に残した数々の作品をまとめてみたいと思っています。そして、人恋しくなった時などそれを読み返しながら、掛け替えのない相棒だったサトちゃんを偲んでみようかな・・・。サトちゃんは生前、冗談で「私が向こうに逝ったら、順番に上からつり上げたるわ」と言っていましたが、言われた者は皆異口同音に「まだまだ俺をつり上げたらあかんど!」と懇願していました。あまり深く悲しみすぎると、目の前につり針が下りてくるかも・・・
                                  久 野


*平成20年 2月 「サトちゃん追悼特集・第一報」
  
 <心から、ご冥福をお祈りします>
 
今回のことがあって皆さんにお知らせするためにサトちゃんの写真を探していましたが、意外に少ないことに気が付きました。そう言えば写真を撮られるのを避けていたようです。通夜の日、早い目に行って妹さんに断って祭壇を撮らせてもらいました。デジカメのスイッチを入れ写そうと思いましたが、天井の蛍光灯が写り込むので、蛍光灯を一部消してもらいました。そして祭壇に向かってシャッターを切ろうとしましたが、どうしたことか切れません。それどころかスイッチオンの状態なのに、先ほどまで写っていた液晶に何も表示されません。スイッチオフにもできません、つまり急にフリーズ状態になってしまいました。
 昨年末に。石津太神社でこれとよく似た現象を体験した事があります。五分ほどいじくり回していたところ、やっとスイッチオフになりました。再びスイッチオンにすると、今度は正常に操作することが出来るようになりました。一〇枚近く写しましたが、家に帰ってパソコンに読み込んでみると、「写したらアカン」と最後まで写されるのを嫌ったのか、アップで写した分も含めてどれもこれもサトちゃんの遺影の部分だけが不思議にピントが合っていませんでした。
 まだ誰も来ていない、祭壇の前で妹さんと話をする機会がありました。やはり同級生の楠さんにお世話いただくことができて姉も喜んでいますとのことでした。今まで楠の顔を見るたびに「まだまだ、あんたの世話にはならへんで」と言っていたのに、サトちゃんもとうとう楠の世話になってしもうたなぁ、妹さんとは昨日病院で初めてお会いしましたが、遺影の前でそんな話をしながら、みんなが集まるのを待っていました。
 通夜、告別式は、楠の読経の中で厳かに執り行われました。わが「きはらし会」からは、幹事さん(黒田・岡田・北田・古家・河崎)をはじめ、多数が参列し、サトちゃんと最後のお別れをしてきました。


<サトちゃんのこと>
  記録が無いので定かではありませんが、「かいらんばん」の創刊が16年前だから、それよりず〜っと以前・・・それは今から30数年以上も前のことになるでしょうか。お互いにつき合いも途絶え勝ちになっていた釜中・黒田・播野・股野・谷口・久野が、どういうきっかけだったか小学校(6年1組)の同窓会名簿を整理しようということで手分けして必死の思いで調べたことがあります。当時、中百舌鳥にいた谷口から「坂部さんが、小さな子供を自転車に乗せて走っているのを見かけたことがある」との情報が入りました。すぐさま、釜中と二人で中百舌鳥・白鷺周辺の保育所、幼稚園を訪ね歩きました。その時は結局分かりませんでした。そんな調子で、それぞれ手分けして調べ上げた名簿が、その後の同窓会の開催に大いに役立っていることは云うまでもありません。
 そして、「かいらんばん」の発行(平成3年7月)へとつながっていきました。最初は久野一人が勝手に始めたことです。その主な動機は、 の手習いではじめたパソコンに興味を持ち、その趣味としての「かいらんばん」を通じて同級生間の旧交を確かめ合い、さらに親睦を深めるために少しでも役に立てれば一石二鳥ではとの思いからでした。この「お互いの旧交を確かめ合い、親睦を深めたい」という思いが一番強かったのが、他でもないサトちゃんでした。
 創刊号が出来上がったものの、躊躇しながら投函するまでに三日かかりました。幸い届くと同時に大きな反響があり、相談もせず始めたにもかかわらず、釜中から「ええのん出来たなぁ、ありがとう。これから俺とこの事務所(株式会社 インテリアかなか)でコピーしょうや発送作業も一緒にやろう」との嬉しい申し出がありました。ここに釜中・黒田・サトちゃん・久野の四人による「かいらんばん編集部」なるものが、あくまでも内々に結成されました。
 やがてこの年の10月になり、サトちゃんが「第6号」に「やっと観念・・・坂部さん」というタイトルで登場します。《10月18日、朝8時過ぎ坂部さんから電話がありました。二日酔いで頭がボォーとしていたものの、確か次のようなヤリトリだったと思います。もしもし「お早うさん」あぁお早うさん「あれ昨日送ったで」えっ、あれ?あぁ頼んでた原稿か、ありがとう「字いっぱい間違うてるで」そうか、かめへん直しとくよ「バラバラやで」なにっ、ばらばら?「うん、文章がバラバラになってしもうた」あぁそうか、適当につないでエエ場所にドカンと載せるよ「あかん、隅の方でエエ」そうか、まかしといてや。名前出してもええんか?「どっちでもええわ」・・・一昨日股野の店(太鼓)で会った時、子供の頃をよく覚えていたので、かなりしつこく原稿を書いて欲しいと頼んでいました。話をしていて言葉はぶっきらぼうですが、自然に身に付いた優しさや暖かさが直接伝わってきて、すごく清々しい気持ちにさせてくれます》


<編集後記>
 サトちゃんは最後まで一貫して「かいらんばん」のよき理解者であり、よき協力者でいてくれました。「かいらんばん」にまつわる思いもよらぬ大きな試練に対しても同士として共に立ち向かってくれたサトちゃんの死には、深い悲しみと容易に立ち直れないほどの大きなショックを受けています。サトちゃん居てこその「かいらんばん」だったように思います。
 いずれ、皆さんからもサトちゃんに関するコメントが届くと思いますが取り急ぎ、ご報告まで。
                             久野 勲(第366号)

  

  
「あれから38年」
  みなさん、その後お元気ですか。日一日と寒くなってまいりましたが、毎日忙しく元気に過ごしておられることと思います。何と言っても私たちは、すぐに50歳になりますのであまり無理をせず一日一日を大切にしたいものですね。今度伊勢に行くことになって、大変うれしく思っています。そして、〈男子よりも先にお風呂に入って、板の間に裸で座らされたこと(あれは3組の板原先生に入りなさいと云われたんです)〉〈砂浜で昼食を食べた時、ご飯に砂が入ってしまったこと〉〈泊まった松島旅館は、旅館街の端の方で海岸に近かったこと〉〈男子だけ焼きサザエを食べに行ったこと〉〈みんなで一緒に大きな座敷で休んだこと〉〈出発する時に黒田さんが急に行けなくなったこと〉・・・等が懐かしく思い出されます。楽しい思い出がいっぱいありましたね。みなさん、今度の旅行には是非参加して下さい。また枕投げとはいきませんが、あれから 年経った今の思い出をたくさん作りましょう。一人でも多くの人に会いたいのです、お願いします。

             平成3年10月「かいらんばん第6号」 
                            酒井(坂部)サト子 



 思えば「創刊号」の反響がおさまった頃から「何でもかんでも書かれる」等の批判が聞こえてきました。僕なりに取捨選択をして掲載していたつもりでしたが、理解が得られないことに悩んだ時期があります。そんな時でも「気にせんでええで」と一貫して支持し続けてくれました。その後も釜中事務所での発送作業時、コピーする前に、「こんなもんでええかな」とサトちゃんに目を通してもらっていました。邪魔くさがりもせずジッと目を通した後、返ってくる返事は必ず「これでええんと違う」でした。それで安心して作業を進めるわけです。今思えば、僕自身薄々気がついていましたが、僕に対して一切クレームをつけずに思い通りにさせてくれていたんだと思います。僕の役割を評価してくれていたようです。いわゆる以心伝心といったところでしょうか。
 そして、毎回発送作業の合間に釜中・黒田を含めた四人でサトちゃんの買ってきてくれた弁当を食べながら、いろんな話をするのが楽しみでした。そんなサトちゃんも、今はもう・・・。編集室にはポッカリと大きな穴が開いてしまいました。
                                    久 野

*平成20年 2月 「サトちゃん危篤の第二報」
  
 これを打ち込んでいる今、日付が変わって2月11日午前0時半です。永遠の眠りについたサトちゃんに別れを告げて、たった今帰り着いたところです。昨年末にサトちゃん入院の第一報が入り、急きょ暮れも押し詰まった30日にお見舞いに 行ってきました。前号には本当のところは書きませんでしたが、その時には意識はハッキリしていたものの、深刻な状態であることが分かりました。
 そして、第二報が入り昨日、病院へ駆けつけましたが、すでに意識は朦朧としていました。それでも、耳元での我々の呼びかけには、目を開けたり、うなずいたり、笑顔も見せてくれました。時には起き上がろうとする仕草までも・・・。辛くて見ていられませんでしたが、代わる代わる耳元で呼びかけ続けました。
 「虫の知らせ」とでも言うんでしょうか、サトちゃんを見舞った後この日はいつになく早く家に帰りました。10時頃だったでしょうか、帰るなり「先ほど股野さんから電話がありましたよ」とのことでした。折り返しかけました。受話器の向こうでは、酔いと今にも泣き出しそうな声で聞き取りにくく何度か聞き返しましたが「さっき釜中から連絡があり、サトちゃんが息を引き取ってしもうた」とのことでした。すぐ病院へ行こうと言って、そのまま家を飛び出しました。そして、この日、見舞いに来てくれていた楠と三人で病院へ駆けつけました。
 病院へ着くと妹さんは涙しながらも、気丈に応対されていました。弟さんはサトちゃんの枕元で深くうなだれ続けていました。サトちゃんは入院中のお母さんに代わって二人の弟さんの世話をしていたそうです。姉であり母親代わりだったようです。そっと白い布を外すと、長年大変な病気と闘ってきたとは思えないほど穏やかな表情で眠っているようでした。そっと頬や手に触れてみましたが、少し温もりが残っていました。
 まさに「我々が来るのを待っててくれたんやなぁ。会えて安心して向こうへ逝ったんやなぁ」と、誰もがそう思い口に出しながら、病院から家に帰るサトちゃんを見送りました。(写真は十二年前になりますが、歩くのが好きだったサトちゃんの発案の「歩こう会」で行った京都でのスナップから選びました。この屈託のない笑顔を見ていると涙がこぼれました)
 思えば最初から最後まで「かいらんばん」のよき理解者であり協力者であり続けてくれたサトちゃんには感謝の気持ちでいっぱいです。そんなサトちゃんに対し、今となっては為すすべもなく、ただただ、ご冥福をお祈りするのみです。
 このスナップは、昨年7月の同窓会で仲良しの逸っちゃんとのツーショットです。サトちゃんにとって、これが最後の同窓会になってしまいました。あれほど楽しみにしていた、今年の宿泊同窓会を待てずに旅立ってしまいました。
              久野 勲(第366号)
*平成19年12月 「サトちゃん入院の第一報」
  
 12月も末になって「サトちゃん入院」の第一報が飛び込んできました。女性たちとは別に、30日に釜中・黒田・股野・久野の四人でお見舞いに行ってきました。意識はハッキリしていたものの、深刻な状況であることは一目で分かりました。乳ガンを患って以来10年になりますが、ここ何年もそんなことも忘れるくらい元気にしていました。
*平成19年11月 「サトちゃん大丈夫かなぁ」
  
 ところで、サトちゃんが体調が良くないらしくあまり顔を出さなくなりました。電話をしてみましたが、今ちょっとしんどいねんとのことでした。発刊当初から良き相棒として「かいらんばん」発行作業を中心的に取り仕切ってくれてきただけに寂しい限りです。このままでは「かいらんばん」の発行に支障をきたすことになりかねません。しかし、サトちゃんのことです、しばらく休めば、また元気な姿を見せてくれ、またいつものように「しゃべってばっかりしてんと、はよせえなあかんで!」とハッパをかけてくれることでしょう。
                             
久野 勲(第365号)
*平成19年10月 書道展「五清会展」

 時あたかも、10月14日(日)の昼下がり、久しぶりに難波まで出向きました。聞くところによると、この日は御堂筋パレードとかでえらい賑わっていました。時計を見ると午後2時前です。難波駅改札口にいると三々五々見覚えのある顔が集まりはじめました。それは、股野・清水・五百・古家・北田・大頭さん達でした。この面々は御堂筋パレードに見向きもせず地下鉄御堂筋線に乗り込みました。
 心斎橋駅で降り階段を上がると大丸前に出ました。そのすぐ近くにめざす「ギャラリー永井」がありました。トントントンと階段ではなくエレベーターで四階まで上がると「ギャラリー永井」の入り口でした。そこで、やや緊張気味ながらも、どう見ても場違いな感の否めない我々に、黒っぽい和服姿がよく似合う増子(水口)さんがにこやかに出迎えてくれました。なお、今回のテーマは「美しいやまと言葉と蒔絵」です。
 そして、もっともらしく真剣な面持ちで書など鑑賞している我々に抹茶やお菓子など出してくれました。そんな厳かな雰囲気の中「おい、俺こんなお茶飲むのん初めてじょ」「え〜ほんまけぇ、お前はじめてけ、俺は二回目やぞ。一回目は確か三年前にギャラリーかめしまで、増子さんによばれたんやんけ」「そうけぇ」・・・。
 それにつけても、最近では《中島慈子さんのコンサート》《高橋南勝くんの写真展》そして、今回の《水口さんの書道展》と同級生の頑張っている姿を見るというのは我が事のようにうれしく、誇りに思えます。また「自分もまだまだ老け込んでる場合じゃない!」と勇気らしきものが湧いてくるような気がします。
 無事ギャラリー永井をあとにした我々は、御堂筋パレードでごった返す中、迷子になりながらもやっとのことで難波駅近くの喫茶店・英國屋にたどり着きました。ここでは結構時間をかけていろんな話をしました。ミルクを飲んでいた五百がやにわに話し出しました。「お前らなぁ、泊まりがけの同窓会は来年で終わりなるどぉ」「なんでじぇ」「そんなもんな見ててみ、来年はまだええけど、その次になったら俺ら70やどぉ」「そら当たり前じゃ、それがどうしたんじぇ」「そんなもんな、俺は二十歳の頃から体に気ぃつけてるさかいええけど、70の声聞いたらそんなもん、おおかたの男連中は足腰立たんようになってしもうて何が同窓会じぇ」「そう言われたら、男で最後まで残るんはイチャコやろうなぁ」という意見に思わず一同納得したりして・・・。
 ところで、今後ともいろんな機会を見つけては積極的に出かけるようにしたいものだと思いました。今回は股ったんの呼びかけでしたが、いつでも誰でも呼びかけて集まれるものだけで集まる、つまり「ミニ同窓会」があっちこっちで開かれて、その呼びかけと報告を「かいらんばん」の紙面で・・・ということになれば一石二鳥になるのでは・・・まさに「捕らぬタヌキの何とやら・・・。」ところで話がどこでどうなったのか女性立ちをして「一回、洗濯機の使い方を教えたろうか」という話になったようでしたが、うっかり聞いていたため、残念ながら僕には何の話だったのかさっぱり分かりませんでした。
 なお、ご覧のように増子さんの書・三点をカメラにおさめてきました。最後の五枚のお皿のようなものは、見にくいかも知れませんがやまと言葉を蒔絵風にあしらったものだそうです。さらに僕のホームページにもカラーで掲載していますので、ネットをやっている人はご覧おきください。
                             久野 勲(第364号)
   

 
                                  
    

 


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